報告

米山 巌 氏の紹介 (静岡県レスリング協会)

米山 巌 氏(旧姓岡崎) 

    

静岡県レスリング協会 相談役 

1940年1月6日満州国で生まれ (山口県長州出身)

1982年(昭和57年~59年)県高体連レスリング専門部委員長

県レスリング協会理事長 同副会長

1996年(平成8年)静岡新聞静岡放送 優秀指導者受賞

2013年(平成25年)公益財団法人 静岡県体育協会 功労章

1940年(昭和15年)満州国で生まれた。その後、山口県青海島に帰国した。大津郡通村小学校、中学校に入学卒業した。中学校では、野球部で活躍したが、相撲も大好きで得意だった。山口県立萩商工高校に進学して、ラグビー部に入った。県大会2位になるほどで、最後の試合でトライしたことが忘れられない。高校時代ラグビーばかりやっていたためか、四回受けた就職試験はすべて不合格であった。紹介により大阪の福井製作所に務めたが迷惑を掛けてばかりいた。1年後、日本体育大学を受験し2次補欠合格で入学した。母や兄から50万を工面してもらって、1960年日本体育大学に入学した。大学では個人の努力次第で結果がでるスポーツで、中学時代得意だった相撲を生かせるスポーツはレスリングと考え、体育館の片隅で練習しているレスリングを見学にいった。その時、初めて話をした先輩(小林哲雄先生、後の稲取高校レスリング部創部者)が声をかけてくれ入部した。上級生に同郷の花原勉(東京オリンピック金メダル)がいた。1年生の夏の合宿は穴吹で行われ時、高校1年生と試合をしたがその時も負けた。(後に日本体育大学の名監督となる。藤本先生が大学入学した時、先輩米山先生に高校の時、私は大学生に勝ちましたと負けた本人とも知らずに報告したそうです。)2年生の秋の新人戦で徐々に結果が出てきた。3年生のインカレは2位、4年生では日体大始まって以来のインカレ初優勝。1963年、1964年の山口国体、岐阜国体で52kg級で2回優勝した。1963年駒沢体育館で行われた東京オリンピックプレ大会(オリンピック予選会)で花原勉氏と引き分けたがバットマーク差で2位の成績であった。1964年の新潟国体では3位であった。1965年静岡県立稲取高校に新任体育教員として赴任した。稲取高校では、1969年米国コロラドで行われた第1回ジュニア世界選手権代表を4名(伊澤厚84kg、近藤光弘56kg、臼井善行52kgG2位、太田弘48kg、)を輩出し、日本チームのコーチとして遠征した。第2回大会1970年東京代々木体育館行われた大会でも日本のコーチとして活躍した。この大会では、佐々木禎52kgフリー3位、中山友義60kgグレコが出場した。)1965年の岐阜国体で2回目の優勝を果たした。その後は、静岡県レスリング指導者として、稲取高校5年(1965年から1970年「6年間」)、修善寺工業高校14年(1970年4月から1984年「14年間」)、1984年4月から県教委員会に努める。1986年から8年間吉原工業高校(1986年4月から1985年)、裾野高校(1995年4月から2000年3月)で定年退職した。裾野高校時代は県協会の事務局長、理事長を経て、副会長として、協会を支えた。その後、女子連盟の会長を務め、女子レスリングの普及に貢献した。現在は顧問として活躍している。1999年自宅にレスリング道場を構築し、ジュニア指導を行っている。(長泉ファイティングエンジェル)

格言 「強い時は練習した」「自信を失った時の人間の弱さを知った」

1985年 静岡新聞静岡放送スポーツ賞 功労賞を受賞

1996年 公益財団法人 静岡県体育協会 功労賞を授与

米山流レスリングの指導により、教え子たちはレスリングのとりこになった。

1975年に指導者第1号(渡辺長久滋賀県教諭)が誕生した。その後は、佐々木禎(1977年世界1位フリー 静岡教諭)、古里光弘(東京自由ケ丘学園高校、全日本2位グレコ)、三沢泰雄(全日本3位グレコ 静岡教諭)、長野廣之(世界ジュニア6位 グレコ 静岡教諭)、中村新治(静岡教諭)、井村陽三(全日本フリー 2位 静岡教諭)、杉山慶太(全日本3位グレコ 静岡教諭)、篠原正樹(静岡教諭)、日吉光晴(滋賀教諭)

2000年定年退職後はジュニア指導の指導者を育成した。黒飛健、水口光秀、小野田好朗、天野敬太などである。